出釋迦寺(出釈迦寺)縁起

出釋迦寺縁起、弘法大師様捨身のお行


本堂にある捨身のお行を描いた絵

地蔵堂南にある奉納記念碑の絵

お大師様捨身のお行(おだいしさましゃしんのおぎょう)

弘法大師様が真魚(まお)様と申された7歳の時、このお山で修行を積まれ「将来仏門に入って、仏の教えを広め多くの人々を迷いから救いたい。この願いが叶うかどうか、お釈迦様の証をお示しください。一心にお祈りすれば、お姿を表し霊験をお示しくださるとのこと、願いが叶うなら、どうぞお姿を拝ませてください。もしもそれが叶わないなら、この身を諸仏に供養としてささげます。」と紅葉のようなお手を合わし、一心に仏を念じ、高い崖から身を投じられました。

すると、不思議にも天女が現れ、幼きお大師様を優しく抱きとめ、元のところへ置かれると同時に紫雲の湧き起こる中に、眉間より光を放つ蓮華に座したお釈迦様が現れ、お大師様に「大願成就」の証を示されました。お大師様が、感涙にむせ伏し拝まれている間に、お釈迦様のお姿はお隠れになりました。


本堂地蔵堂前にある捨身ヶ嶽(しゃしんがたけ)遥拝所の石碑

奥の院禅定 奥の捨身ヶ嶽の険しい崖

お大師様は成人の後、思い出のこの山に登り、世尊(せそん)ご出現の有難い霊験を永久に記念し、世の人々の仏縁を望み、ご自作の釈迦如来を本尊として一寺を建立「出釋迦寺(しゅっしゃかじ)」とし、山号はお釈迦様のお姿を拝んだお山というところから「我拝師山(がはいしさん)」、院号は、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)のご尊像を自刻して安置し、求聞持(くもんじ)の法をご修業されたことにより「求聞持院(くもんじいん)」と名付けられました。


捨身ヶ嶽上の稚児大師像と護摩壇

お大師様の加持水と岩倉大師

出釋迦寺縁起の遺跡

奥の院禅定(根本御堂)のさらに奥は、お大師様がお行をされた場所で、1200年を経た今でも、お大師様が実際に使われた加持水の水源や捨身のお行場が残されています。

お大師様のご霊験

柳の水


奥の院参道の途中にある柳の水入口

柳の水の水源

柳の水(やなぎのみず)

江戸の初期、大阪のある豪商の娘様が病にかかり、日増しに容態が悪くなり、やがて医師からも助からないと見放されました。

大変だと家中で騒々しくしていると、玄関に一人の僧侶が立ち、事情を尋ね、娘様の容態の話を聞くと「それではこれで薬を飲みなさい」と水を渡しました。

その水で薬を飲むと、不思議なことに娘様の病気はたちまち快癒し、僧侶に水の云われを尋ねると「お大師様が生まれた有難い場所の湧き水です」と答え、去って行きました。

後に、娘様がお礼参りをしようと、お大師様縁の四国に渡り「水の味」を頼りに各地を尋ね歩き、彼の地に湧き出る水を口に含んだ途端、霊験のある件の水だということを悟ったそうです。

天明4年1775年、この時の豪商様の多額の寄進により本堂の再建が成され、現在に至ります。

目治篭彫不動尊


捨身ヶ嶽中腹にある目治篭彫不動尊

目治篭彫不動尊近景

目治篭彫不動尊(めなおしかごほりふどうそん)

明治の頃、ある石工さんが石が彫れなくなる程の重い目の病にかかり、ほとほと困り果て、お大師様のご霊験に縋ろうと、捨身ヶ嶽にてお行に勤めました。

すると目の病は日増しに良くなり、やがて元通りの良く見える目に戻りました。

いたく感激した石工さんは、お大師様へのお礼にと、捨身ヶ嶽の大きな岩の頂きから自分の乗った篭を吊るし、永い年月岩を一心に掘り続け、やがて一体の不動尊のお姿を彫り上げました。